わたしが“わたし”になれるとき

書きながら考える

人と深くつながったと感じる瞬間って、どんなときかな。
言葉が通じ合ったとき? 同じ経験を共有したとき?
それとも、もっと静かな、感覚だけのやりとりのなかにあるのかも。


「誰かと分かち合えた」と思った瞬間について振り返る。

Q3:「誰かと分かち合えた」と感じたのはどんな瞬間?それはどんな感覚?

A1:愛する人に弱さを見せることができた時。不安でいっぱいで、わがままで、感情のままに笑う姿も、泣く姿も、悩む姿も、全て見せたことがある。そして、それをそのまま受け入れてもらえた時。本当に伝わっていたかどうかはわからない。もしかしたら相手の感じからはわたしとは違っていたかも。それでも、「伝えられたこと」そのものがわたしにとってはすごく大切だった。相手がどう感じていても、それが自分と違う考えでも、到底理解できないような内容でも、「そのままでいいよ」って言ってもらえること。そのまま受け止めてもらえること。自分の全部を見せても、変わらずそばにいてくれたこと。

それが、わたしにとっての「分かち合い」だったのかもしれない。たとえ本当に分かち合えていたのかどうかが曖昧でも、この時は、1番自分が解放される、幸せな瞬間だよね。それだけで十分!って思えた。

A2:仕事をしている時。わたしの仕事は理学療法士と、ピラティスエデュケーター。自分も相手も「できるようになってほしい」「できるようになりたい」という感覚が共存していて、それが叶った時。達成できた時の喜びを共有できた時。「できた!」が共有できた時。

A3:人と目を合わせる時。目を見ただけでわかる時がある。それは「何か」が起こった時に、同じタイミングでお互いがお互いの目を見るの。その時、何を感じていたんだろう?何がわかったんだろう?言葉にならないけど、「あ、同じだね?」って思うの。

A4:音楽。それは例えば、同じ音を聴いている時。それぞれ感じることは違うかもしれない。だけど、同じリズム、同じ音、同じ歌詞をきいて、どちらも「いいね!」と思える時。それは例えば、一つの音楽を作っている時。歌でも、楽器の演奏でも、合唱でも。感情は声に乗る。音色に乗る。言葉じゃない方法で分かち合える時だと思う。

Q4:「本当の自分」はどこにいると思う?どんな時に顔を出す?

A:これが難しい。最近の悩み。

わたしは少し冷めているように見られることがあるみたい。たぶん、小さい頃から「どう在るべきか」を無意識のうちに考えながら生きていたからこそ、心が動いても、頭で考えてそれに合わせて行動してしまう。理学療法士としての仕事も、友人関係も、相手の気持ちを理解しようとして、そのうえで「自分は何ができるか」を考えて動く。

そうやって、落ち着いていて、頭で考える人だと思われるし、頼ってくれる人もいる。柔軟に動く心は持ってるから、共感もできる。相手が問題解決したいように見えたら、それに対して必要な対応をすることもできる。解決策としての自分の経験を話すことはあるけど、自分の弱さを見せるのはすごく、すごく苦手だ。これが、わたしの一つの「本当の自分」。外に見せているわたしの顔かなあ。

でもこれって、正直にいうとどこかで他人事って思ってるからこそ、冷静でいられるものなのかも。人にすごく興味があるタイプではないんだろうな、、けれど、ある瞬間には、心を掴まれては涙が出るほど大共感することもある。自分の心のスイッチって難しい、、

もう一つは、すっごく感情豊かで、些細なことに喜怒哀楽が反応するわたし。あ、怒はあんまりないかな。本当のわたしは心があったかい。「自分ごとのように物事を受け取ることができれば」の話だけど。でもどこかやっぱり、他人と自分とか、身内とそれ以外とか。境界線を作っているところがあると思う。そして、わたしを取りまく人とか、バンバン思い入れが入るような人間はものすっごく、少ない。今思い出してみると、本当に数人だけ。もちろん色んな人に対して、本当に幸せになってほしいとは思ってる。でも、わたしはわたしを生きるのに精一杯だ。

どれも本当のわたしだと思うけれど、、
わたしが好きな自分は、ごく一部の人にしか見せられない、あたたかくて、感情に正直なわたし。そんな自分に出会えたときに、ようやく「これが本当の自分だ」と思える。

✴︎おわりに

あの瞬間が本当に「分かち合えていた」のかは、まだわからない。
でも、確かだったのは、自分の心がやさしくほどけた瞬間だった
それはたぶん、言葉よりももっと深いところで「わかり合えた」と感じたからかな、、と思う。

静かな夜に、またここで会えますように。

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